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【枝野会長代理】次に、長島昭久君。 【長島委員】民主党の長島昭久です。どうぞよろしくお願いいたします。 きょうは、私も学生時代、憲法をかじっておりまして、江橋公述人からお話を伺えると大変楽しみに実はしておりまして、整然と江橋公述人から順番にやっていこうかと実は思っておったんですが、今、村田公述人の方から立憲主義に関する非常に興味深いお話を伺ったものですから、少し順番を逆にさせていただきまして、まず村田公述人からお話を伺いたいと思うんです。 立憲主義のお話、大変興味深く伺わせていただいたんですが、憲法の文言、コンテクストではなくて、まずテクストが十分考察されるべきだというお話、それから、規範的特質というのを十分考慮しなければいけない、そういうお話だったかと思います。今、ちょうど最後、松宮委員から御質問のあったテーマでありますけれども、憲法の実現ということと現実の世界ということのまさにはざまに、政府を初めとする政治部門の日常の政策というものが存在するというふうに思うんですね。 先生の解釈、憲法論でいきますと、今の御議論にもあったように、日本国は個別的自衛権すらない、つまり、国家の自然権ともいうべき自己保存の手段も持ち得ない、こういうまさに驚くべき結論に到達をするわけですけれども、これが本当に立憲主義としての解釈の仕方なのであろうか、本当に、立法裁量というか、国家あるいは政府に裁量の幅が全くないのかどうか、もう少し詳しく伺えればありがたいと思っています。 【村田公述人】私が個別的自衛権という概念の中核にあると考えておりますのは、これは武力行使であります。何もしない、個別的自衛権がないことによって何もできないということを申し上げたわけではございませんでして、これは先ほど報告の中でも申し上げたとおり、さまざまな外交手段であるとか、それから外交手段というよりもっと広く、紛争の根源にある貧困の解決のための努力、これが要するに手段としては当然政府にはあると。何もできない、そういう趣旨で申し上げているわけではございません。 【長島委員】ありがとうございました。 先ほどペマ公述人の方から、国際社会の非常に厳しい現実のお話がありました。私どもも、今おっしゃったように、本来、まず平和的手段で紛争を解決していかなきゃいけないし、できることなら武力の行使は避けたいとみんなが思っているわけですね。しかし、仮に急迫不正の侵害を国家が何らかの形で受けた場合に、そのような場合においても、自己を守る権利、あるいはそれを行う手段も今の日本国憲法下ではとり得ないのか。この点はいかがでしょうか。 【村田公述人】少し根本的な問題からお話しさせていただいた方がよろしいかと思うんですけれども、まず、憲法が現実に合わないじゃないか、この問題でありますけれども、二つのことを申し上げたいと思います。 一つは、憲法に限らず、およそ法が正義の実現を目指している以上、法規範の内容と現実の間に何らかの乖離とかあるいは緊張関係があっても、これは別段不思議ではないわけです。現実に問題があるからこそ法があるとも言えるわけでありまして、もし正義が一〇〇%実現していたとしたら、これは法が要らなくなるということになるわけです。例えとしては余りよろしくないかもしれませんけれども、例えば、殺人がなくならないから殺人罪を廃止するべきだということは、これはだれしも考えないところであろうかと思います。 第二に、憲法と現実の乖離という問題に関しましては、これはやはり、なぜ乖離したのかという責任を考えなければならない。憲法から乖離した現実は決して自然現象ではありませんで、現実はつくられたわけであります。発生したわけではないわけです。そうしますと、憲法と現実の乖離に関しましては、まさに、憲法尊重擁護義務を負う公務員が何をしたのか、あるいはしなかったのかということがまず問題になろうかと。現実に合わないから直ちに変更をするというのは、これはやはり一つの飛躍ではないか。私が何度も言いましたように、まず、憲法の理念を実践する際にどこまで努力したかということがやはり問われるわけです。 そもそも、憲法改正というのは一体どういう場合にするのかということですけれども、これは外国人の同業の友人などと話していると時々言われることなんです。これはフランス人の友人から聞いたことなんですけれども、日本では現状に合わないから憲法を変えるという議論が盛んのようだけれども、それは理解できない、つまり、憲法を守ってできた現実を変えるために改正する、これが本来の改正のあり方じゃないかと。 例えば、フランスの例で言えば、九九年に憲法改正が行われました。この改正は女性議員の比率を高めるための改正でありましたけれども、これは、フランス的な平等観念ではいわゆるクオータの導入ができない、不可能とされていまして、これが憲法院の判決でもあった。つまり、それまでの憲法では女性議員の比率の低いことがどうにもならないからこそ、その現実を変えるため憲法を改正しなければならなかった。憲法上可能なことをするために憲法を変える必要はないということになるわけです。それから、そして必要なことは、憲法上可能なことを実現する努力である、このようなことが言えるわけですね。 特に、平和主義をめぐる現状の問題を考えてみますと、これはやはり九条、決して無力であったというふうには考えられません。それは、例えば冷戦期にありましても、今と比較してよかったということは到底言えないわけでありまして、冷戦期にもこれは熱い戦争がありました。日米安保体制のもとで、日本はアメリカのベトナム戦力に基地を提供するという形で協力したわけであります。それでも、九条があったから、自衛隊は海外に行くことがなかった。つまり、自衛隊が海外に行って無辜の民を殺すこともなければ、自衛隊員が不幸にして犠牲になるということもなかったわけであります。もし九条がなければ、ベトナム戦争当時、日本もまた、例えば韓国のようにベトナムに派兵したということが考えられます。 今日のコンテクストでいいますと、これは話せば長くなりますから簡単に申し上げますけれども、例えば、九条を変更して集団的自衛権の行使が可能になった場合、一体どうなるのかというと、これは、まさに今の危険は、非常に非対称的な力関係があって、アメリカが圧倒的な武力を持っていて、そしてそのアメリカがいわゆる先制攻撃戦略というものをとっている、そういう中で日本がアメリカに協力する、それがますます緊張を高める、こういう悪循環に陥っているというところをまず見るべきではないか、そこにメスを入れるということが必要であろう。 そして、世界という広い視野ももちろんそうですけれども、世界に目を向ける前に、先ほども江橋先生の話にもありましたけれども、やはりアジアですね、アジアの中で日本を見た場合に、この九条があって、日本はもう戦争をしない、あるいはもう殴る側には立たない、こういった宣言をしているということが辛うじてアジアの中での信頼維持に役立っているのではないか、このように考えるわけでありまして、決して、何もしないということが直ちに危険を招くというよりは、むしろ何かをしようとすることによって今危なくなっているんじゃないか、このようなことを申し上げたいわけです。 【長島委員】ありがとうございました。 私は限界事例の部分だけお答えいただきたいと思っていたんです。つまりは、急迫不正の侵害を受けた場合にも無抵抗であり得るのかというお話をちょっとさせていただいたんですけれども、思いはよくわかりましたので、次の質問に移りたいというふうに思います。 江橋公述人に伺いたいのです。 大変興味深いお話で、恩賜の人権、回復の人権というお話、示唆に富む御指摘だったというふうに思うんです。やはり人権実現に向けた国家の責任の軽視というところを非常に強調されておられたように思うんですが、先生の基本的なスタンスなんですけれども、人権にしても、地方自治にしても、あるいは平和の問題にしても、現行憲法を維持しながら、今まで先生もかかわってこられた市民運動などの努力の結果のようなものを一つ一つ吸収して、そしてそれが国政の場あるいは裁判の場でまさに人権が回復されていく、こういうことでとりあえずはいいとお考えなのか。それとも、これまでのそういう市民運動の成果を盛り込んだ新しい条文のイメージをお持ちであるのか。例えば、人権について公述人がどんなイメージをお持ちであるか伺わせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。 【江橋公述人】例えば、環境の問題、環境権の問題をお考えいただきたいと思うんです。時代が変わったので憲法に新しい人権を入れようという議論がよくされていますけれども、私は、それは一つ飛んでいる話だなと思います。 時代が変わったから新しい人権が出るんじゃなくて、時代が変わったことによって、主権者市民が、例えば公害問題に苦しみ、それゆえに被害者として環境の回復だということで、裁判を起こしたりいろいろな運動をして、その行為が広く国民に支持されたから今日環境権というカテゴリーが出てきたわけで、人権というのはそういうものだと思っている。 あるいは、戦後ずっと一貫して存在していたんだけれども忘れられていた、例えば在日韓国・朝鮮人の処遇の問題などというのが出てきたときもそうですし、あるいは、プライバシーとか環境権のように、まさに社会が変わって新しく出てきた問題のときもそうですけれども、社会が変われば自動的に新しい権利が出てくるんじゃなくて、やはり、そこではその問題に苦しんだ被害者の声がもとだと思います。 例えば、被害者で言えばそうですけれども、被害者の人権というのを入れろという考えもありますよね。昔から、日本の刑事裁判では、被害者というのは本当に疎外された位置にあったと思う。ただ、最近になって、それではだめだという、例えば岡村弁護士の話だとかいろいろな話があって、被害者が声を上げて、被害当事者としてこれではたまらぬという声を上げたとき、被害者の人権というのが国民に見えてきた。 私は、日本社会では、一般的に言って非常に人の心を打つ言葉というのは、三カ月か六カ月で日本じゅうに広まるなと思っていまして、私自身が直接見聞きしたものだと、例えば嫌煙権なんかもそうでして、あれはやはり、たばこの煙が嫌だなとか、不安だなと思っている人がいっぱいいたところに、余り美しい言葉じゃないと思うんですけれども、嫌煙権というのは。でも、あの言葉が出たことによって、日本じゅうでこれは嫌煙権ですと言えたし、セクハラもそうで、それまでさんざん被害に遭っていた女性たちが、セクハラという言葉が出たことによって、課長、これはセクハラですと言えるようになったり、ストーカーもそうです。 やはり、人権に関する幾つかの言葉は、既に社会が変わっていて、一点に火が放たれるような言葉ができるとたちまち燎原のように広まって、半年で大体日本人みんなが共有する言葉になるなと思っております。 ですから、今何よりも大事なのは、決して日本市民は憲法の問題がわからないとか、ほっておいたというんじゃなくて、憲法という言葉は使いたくないから使っていないんですけれども、しかし、行ったことは、日々の立憲だったと思うんです。日々、日本国憲法の人権規定を結局は、特に七〇年代以降、市民が運動を通じて新しい命、自分たちが国家を相手に戦える権利としての命を与えてきたと思う。私は、これを憲法を改正して新しく入れるのもいいし、今のままでもどちらでもそれはいいことだと思っております。 ただ、もう一つ、責任ということに関して言うと、私が非常に気になったのは憲法六十五条でして、「行政権は、内閣に属する。」という規定ですけれども、私は、その前に、国民は行政をさせるために内閣をつくった、あるいは、内閣は行政の執行について国民に対して責任がある、だれに対して責任があるかはっきりしてから書いていただきたい。 そういった意味で、六十五マイナス一条というのを、六十四条はもう既にあるわけですから、六十五マイナス一条というのは変ですけれども、六十五条一項として、主権者たる日本国民は行政を行うためにこうしたんだぞ、だから、政府に権限を集めたんだぞというふうに書くべきだ。 つまり、日本国憲法のどこを見ても、政府が政策を遂行しなきゃいけないという、積極的に責務を実行すべきだという、その責務規定が全体的に非常にないんですよね。皆様のおつくりになった地方自治法なんか見ると、地方自治体は住民の福祉の増進をするんだというふうに自治体の責務が頭のところに書いてありますけれども、では、日本国は何をするのかというと、どうもはっきりしない。 そして、突然出てくるのが内閣の国会に対する権限。議院証言法で証言を求めるとき、いや、出しませんという、裁判所に対してもそんなことをやったら、義務づけ訴訟は行政権の侵害だ、自治体に対しては中央の言うことを聞け。ありとあらゆることに対して自分の権限を主張する規定として六十五条があって、その前に、やはり行政府の持つ責任という規定があっていいんじゃないか。それもないことの一つの人権のところにおけるあらわれが、私の言っている、政府の人権実現の責任を軽視しているということかなと思っております。長くなって申しわけございません。 【長島委員】ありがとうございます。この六十五条マイナス一というのは、大変示唆に富む御指摘だったと思います。 先生もおっしゃっておられましたけれども、やはり最初は恩賜の人権のような形で、まさに占領軍から官僚、官僚から市民という、こういう形だったわけですけれども、まさに中江兆民が言ったように、それが裁判の過程を通じて、あるいは立法過程を通じて、まさに回復の人権になってきた、その歴史が七〇年代以降だった、こういうように思うんです。 私、ひとつ、先生が特に取り組んでこられたマイノリティーの人権の中でも、きょう、ペマ公述人もおられますので、外国人の人権について少しお伺いをしたいと思うんです。 まず、そもそも論ですが、人権というのは、先ほど村田公述人もおっしゃっておられましたが、国家以前のものである、人間が人間であるがゆえに享受できる権利、これが人権だ、こういう考え方であろうかと思いますが、日本国憲法の条文を見ると、人権の享有主体が「国民」と書かれていたり、「何人も、」と書かれていたり、二種類あるということはよく言われるわけですね。 特に外国人の人権については、最高裁判例も学説も、大体、外国人にも日本人と同じような人権を享有させる必要があるというふうに前段で言いながら、結局は、在留資格制度のもとでの人権である、そういう判決であると思います。この辺について、もっと普遍的に、日本に暮らしている人々にはあまねく人権の享有主体として人権を享受させるべきではないか、こういう議論が当然あり得ると思うんですけれども、先生のお立場でいかがでしょうか。 【江橋公述人】人権規定に関しては二つ問題があると思います。 一つは、今おっしゃったとおり、すべての者に実現されるべき人権がそうなっていないという戦後日本社会の特殊性の問題があったと思います。しかし、それについては最近は随分改善されてきたように思うんです。 もう一つは、やはり、日本に来ている人すべてに保障されるわけでもないけれども、国民という範囲で一応くくろうじゃないかという、人権というか憲法上の権利もあると思います。その場合には、何をもって国民とするのかという部分が非常に大事で、憲法で言えば憲法十条だと思うんです。 日本国憲法の場合は、憲法十条で日本国民たる要件を法律に委任しているわけでありまして、それに基づいて、戦後日本社会は国籍法をつくって、この国籍法、すなわち憲法十条で言う法律だというふうにしてきまして、その国籍法で在日の人を排除したわけだと思うんです。 私は、私の憲法の授業のときには、これは違うんだ、憲法十条で法律と言うのは、国籍法もあるけれども、今の日本は非常に変な制度になっているから、出入国管理法とか外国人登録法とか、そういうものとか、あるいは平和条約特定者の、要するに、在日の人たちの特定の管理法であるとか、そういう法律も含まれて複数の法律があるんだ。 つまり、憲法が国民たる要件は法律で定めると言った場合、国会は自由裁量権を持っていて、在日を排除して国籍法をつくったというのは、あれは間違いで、ポツダム宣言やカイロ宣言で、日本列島上にいる人みんなで新しい日本国をつくれというふうに言われて、それをのんで敗戦したわけですから、やはり、終戦当時に日本国にいた人、戦前、植民地の人であったかどうかは別としても、それが全員、日本国民になれるような可能性を持った国籍法にしなければいけない。 もちろん、在日の人たちが、本国に帰還する、あるいは、憎むべき日本の国籍なんか持ちたくないという方はいますから、旧植民地出身者には国籍選択権を認めるべきだ。それを日本国は、独立したときに一方的に全部ひっくるめて外国人扱いにして、しかも、国籍法の壁を非常に厚くして、外国人は煮て食おうと焼いて食おうと勝手というふうに、かつて国会で言われたことがありましたけれども、そんなことをしたところがおかしいんだという意味で、まずは、おおよそ人間であればすべての者に認められる権利と、それと、一応、国籍というよりは、多分、社会保険等々も含めて制度の中に入っている人に認められる制度と両方ある。その制度が狭過ぎたことと、二つ問題があると思っております。 【長島委員】まさに今の先生の御指摘、私も大賛成でありまして、国籍取得の要件が厳しかったりということもあるし、それから、特別永住外国人の問題というのは当然のことあるんですけれども、最近になって、いわゆる地方参政権を永住外国人に広げるべきではないか、こういう議論がありますが、それに対しては、いや、やはり国民になっていただくのが先決じゃないか。つまり、今、少し国籍取得の要件が高過ぎるのであれば、それをまず低くしていくことが先決で、そして、同じ国民として人権を享有してもらうのがまず筋ではないかという、こんな二つの議論が今闘わされておりますけれども、先生の観点から少し整理をしていただければありがたいと思います。 【江橋公述人】御案内のように、日本にいる外国人のうち、例えば華僑の人とか、最近でいえばベトナム難民の人も、本国に残された家族捜しに行きたいけれども、難民が本国に一度行っちゃうと、日本の入管法上は、本国帰還の可能性があれば難民資格は取り消しですから、本国に行ったら戻れないというので、じゃ、日本国籍を取って、ベトナム系日本国民になって本国に親類捜しに行こうかとかというので、簡単に国籍取ります。それに対して在日の人たちは、何だ君たちはというふうに批判的だと思うんです。 そこに集約的に出ていますように、私はやはり、日本国籍取得の要件を、昔のように、家族の中に一人でも日本国籍嫌だと言っている人がいたら認めないとか、それで在日の人の場合は、わざわざ親と別居して、自分だけになって国籍取ったという人もいますよね。親が相当強く日本国籍嫌いだと言っている人がいると、そういう親と一緒に住んでいる者には国籍渡さないとか、何か名前の読み方でまだ日本人化していないからだめとか、いろいろなことを言っていたので、そういうのはなしにして、国籍取得の要件を下げるというのは全く賛成であります。 ただし、もう一つは、やはり、戦後六十年間、こういうふうにしてやってきた在日に対する処遇の後始末の問題として、国籍を取らなければ権利を認めないというのではなくて、国籍を取らなくても認められる権利があるだろう。特に、地方参政権の問題に関して言えば、ヨーロッパで言われたとおり、ある国からある国に国境を越えて移住する、EUになっていますから簡単な話ですけれども、国境を越えて移住した瞬間に選挙権がなくなっちゃうって変じゃないのと。 国政の参政権は、本国に戻るとか、郵便投票とか、大使館で投票するとか、日本も大使館で投票ですから、いろいろなやり方はあると思うんですが、地方参政権については、やはり住んでいる場での生活の現実をどうよくするかというレベルの投票ですから、だから、やはり住んでいる場で投票できるようにした方がいいじゃないかという意味で、国境を越えたら地方参政権がなくなっちゃう、どこでも投票できなくなるというのはおかしいじゃないかということで、ヨーロッパは八〇年代から地方参政権を非常に広く認めてきたと思うんです。私もそう思っています。 ですから、地方参政権は居住地で、そして、中央というか、中央政府の選挙権は、国会とか大統領とか国によって違いますけれども、その選挙は、大使館なり、郵便投票なり、要するに、国籍国でというふうな仕切りが私はいいんじゃないかなと思っております。 【長島委員】あと一点だけ。 今の先生のお話ですと、九十三条ですね、地方公共団体の住民が選挙するという、ここだけ、憲法上、住民になっていますね、国民ではなくて。その辺も解釈の余地があるという、憲法上、今先生がおっしゃったような、外国人に地方参政権を認めるという先生の論拠の一つになり得ると思っておられますか。 【江橋公述人】私もそう思います。そして、ただ、憲法及び地方自治法が、住民という言葉と日本国籍のある住民という、二つ言葉を使い分けていることの個別的な一つ一つを検討していくと、ちょっと首をひねるようなところもあるわけですけれども、基本的な考え方としては、やはり、地方自治体の住民が、その住んでいる地域の公共管理事項をきちんとするために、議員を選ぼう、税金を納めよう、首長を選ぼうという話ですから、やはり、その住んでいる地域の住民には広く参政権が認められるべきだというふうに思います。 【長島委員】
ありがとうございます。
私自身は少し違う考え方を持っておりまして、国政と地方というのは同じ政治でもなかなか分けられない部分がありますので、国政と地方と実体的に区別をして、地方参政権だけ認めることが本当にいいかどうかということ。それから、そういう場合は、国籍を持たない人が参政権だけ持つというような、ちょっといびつな形になりはしないかというちょっと心配があるものですから、そこは私は留保させていただきたいと思います。
ペマ公述人は、たしか、日本国籍は取得されておられないお立場だというふうに理解をさせていただいておりますが、そういう点において、今、日本に生活をされて、先ほど、日本国憲法の人権に関する非常にいい部分のお話をしていただきました。しかし、国籍を取得していない立場で生活をされる中で、憲法上何か不利益をこうむったりという、そんな御経験は、もしございましたら。 【ペマ公述人】私は、過去、三十数年間、日本で生活して、外国人であることによって不利益を得たとか、そういうことはないと思っております。 多分、比較の問題だと思うんですね。私は、私自身がもし日本の国政に対して関心があれば、当然、日本の法律に従って帰化の手続をし、そして、その手続に照らし合わせて、判断する側が判断して帰化できるわけですから。今まで私は、特に日本の政治をどうこうしたいという気持ちもなかったし、ですから、自分自身が日常生活することには何の不自由もなかったということがむしろ言えるんじゃないかと思います。ただ、すべての外国人が私と同じかどうかということは断定できません。 それから、もう一つは、私の兄弟とかそういうのは今世界じゅうに散らばっておりますので、私は、やはり、これも比較の問題で、決して日本が外国人に対して冷たいとも思っていないし、そして、帰化の条件が日本の方が難しいとは思っていないんです。それは、多少、やはり誤解があるのじゃないかと。ただ、日本に生活している例えば在日韓国の方だとか、あるいは、その他、過去、歴史的ないろいろいきさつ上、もっと、当然、自分たちは別の扱いを受けるべきだという考え方の人たちは別でしょうけれども、そうでない場合にはそんなに不自由がないというふうに私は思っております。 【長島委員】ありがとうございます。 それと、もう一つは、先ほどは、自衛隊というか九条の話を少ししていただきましたけれども、もう少しお時間があれば、国連憲章と九条の関係についてもお話をしていただけるというふうにさっきおっしゃっておられましたので、もしお考えがあれば、ぜひお伺いしたいと思います。 【ペマ公述人】私は、多分、国連憲章ができたころは、集団防衛というか、国連が中心になって国際秩序を維持し、そして、国際平和を脅かすようなものに対しては懲罰というか制裁を加えるというようなことで、国連軍が何かやろうというようなことが当初あったんじゃないかというふうに解釈しております。しかし、今の状況ではそのようなことができていないし、また、できるような様子もない。ただ、アメリカ合衆国は、御存じのように、何度か国連軍と名乗って一方的なアメリカ的価値観を、アメリカ的正義を押しつけているにすぎない。 したがって、私は、そのような国際社会において、そういう秩序を守るための制度がない限りにおいては、やはり、個人が個人の生命、財産あるいは名誉を守ることがあるのと同じように、国家も国家の自衛権というか防衛権が当然あるべきだと思うし、そして、憲法第九条があったからベトナムに行かなかったのではなくて、それは、過去の歴史的関係とか、あるいは、そのときの国際状況などによって行かなかったのであって、今も憲法九条はあるんだけれども、イラクに行っているんですね。 したがって、やはり、そういうことを考えてみると、国連憲章も含めて、国際社会でそういうような環境をつくらない限りにおいては、私は、自分の家内が目の前で犯されていたら、これは黙って見ていないと思うんです。したがって、日本国民が、あるいは日本の領土、領空、あるいは人民の生命にかかわるようなことがあったときに、それを守るのは、やはり皆さん、あるいは日本国、国家としての任務であるでしょうし、それを放棄することは私はちょっと異常ではないかというふうに思っております。 【長島委員】ありがとうございます。 最後に、村田公述人にもう一度戻って伺いたいんですが、今のお話がありましたように、憲法は百三カ条しかないわけですから、もともと憲法制定時には想定しなかったような現実というのと遭遇する可能性はあると思うんですね。そういった場合に、さっき先生がおっしゃっていた、今の現憲法の文言や規範的要請といったものに余り固執し過ぎてしまうと、結局、憲法改正しか、想定し得なかった現実への対応策というのはなくなってくるんじゃないかと思うんですね、憲法的には。 その辺については、どんなお考えを持っておられますか。 【村田公述人】非常に一般的な御質問ですので、これは一般的にお答えするしかないわけですけれども。 想定しなかった新しい状況の発生と申しましても、例えば人権問題で言えば、これはいわゆる新しい人権の問題に関連することですけれども、日本国憲法で言えば十三条がございますので、相当柔軟に対応することが可能であるというふうに考えられます。 それから、統治機構の運用に関連して言えば、これはリジッドに解釈せざるを得ませんので、文字どおり、これはあくまでも九条との問題ではなくて、一般的、抽象的に、新しい事態が発生して憲法上の対応ができないということになれば、それは改正という問題もあり得るということが考えられます。 【長島委員】ありがとうございました。 【中山会長】次に、太田昭宏君。 |
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