七転び八起きの半生!

長島昭久「奮闘記」

ー渡米から初当選までー

どん底からの再スタート……!

志に燃えて、意気揚々と渡米したはいいものの、早速大きな壁にぶち当たりました。

英語です……! 

大学院への入学を目指していたのですが、英語が苦手過ぎてそもそも受験資格がありませんでした。よくその状態で渡米したなと言われるのですが、生まれながらに楽観主義的な私は、なんとかなるだろうと思っていました……。汗

まずは、ヴァンダービルト大学(テネシー州ナッシュヴィル)で教鞭を執るジェームズ・アワー教授の門を叩き、寛容にも客員研究員として採用していただきました。そこで、大学の講義を受講しながら、語学学校に通いTOEFL(“トーフル”と読みます。英語のテスト。アメリカの高等教育機関に通うには、ここで一定の点数をとる必要あり)の受験勉強に明け暮れました。

しかし、点数が伸びない……! 必死に勉強しているのに、私の目指す大学院に入学するのに必要な基準に、なかなか達しません。日本にいる妻に必死に支えてもらっているのに、そもそもの渡米の目的である大学院に、入ることすら叶わないとは……。情けないやら悔しいやらで、この期間は、本当に辛かったです。まさに、お先真っ暗。でも、アワー先生や周囲の人々の暖かい励ましに支えられ、努力を続けました。

そんな中で、妻にアメリカにきてもらいます。そこで、長女が生まれました。今振り返ってみれば、このどん底で長女が生まれたこの瞬間が、私の半生でもっとも嬉しく、勇気づけてくれた出来事でした。落ち込んでなんていられない。もう、やるしかない!!

そして渡米から1年半後、ついに、TOEFLで大学院の受験資格に達する点数を獲得!! その後、志望していたジョンズ・ホプキンス大学大学院の入学許可が下り、ワシントンDCに移りました。

就職、そして飛躍!!

大学院を卒業した後は、由緒あるシンクタンクである外交問題評議会に研究員として就職しました。日本人として初めてのことでした! まぁ、華々しい話のようですが、やっとこさこの就職に漕ぎつけた時の預金残高はたったの600ドル! 生活の内実は、本当にギリギリでした。それに嫌味ひとつ言わず付き合ってくれた妻には、本当に感謝であります。この時、次女も生まれて、ますます明るい展望が開けてきました! ここまで、長かった……!

この年、さらに嬉しいことがありました。懸賞論文「安全保障のビッグバン」で、読売論壇新人最優秀賞を受賞したのです。

渡米してから、自分なりに必死に努力していましたし、成長もしました。ただ、目に見える成果を示すことができておらず、もどかしい思いをしていました。でもこの受賞で、それがようやく形になった気がしました。妻をはじめ、物心両面で留学を応援してくれた祖父母が喜んでくれたことが、何より嬉しかったです。

7年半に渡るアメリカ留学の前半は、まさに裸一貫。志一つを身にまとって彷徨っているような状態でした。しかし終盤には、胸を張って外交・安全保障の専門家と言える知識や実績を身に着けることができ、さらに、生涯の財産である多くの知己を得ました。

留学生活の前半にお世話になったジェームズ・アワー教授、大学院でご指導いただいたズビグニュー・ブレジンスキー教授、就職の際に引っ張ってくれたマイケル・グリーン氏、さらには、公私にお世話になったリチャード・アーミテイジ氏やジョセフ・ナイ教授、ジョン・ハムレ氏、カート・キャンベル氏など、世界的に著名な外交や安全保障の専門家との深い交流は得難いもので、このこと一つをとっても、思い切って渡米した甲斐がありました。

ただ、私がアメリカに留学したのは、「国際政治をリードする政治家」になるためです。勉強している間も、就職してからも、アメリカから我が国を注視していました。

ITバブルで浮かれるアメリカとは対照的に、失われた20年の真っ最中である日本は、国際社会での存在感や影響力が日に日に陰っていました。また、アメリカには日本の政治家や政府高官が頻繁に訪れ、その場にアメリカ側の一員として陪席することも多かったのですが、安全保障という肝心な部分はアメリカに依存するという戦後体制がその当時でも色濃く残っていることを、たびたび痛感しました。祖国の衰退に、居ても立ってもいられない気分でした。

今から振り返れば大それた考えですが、「このままじゃマズい。早く日本に帰ってオレが何とかしないと……!」と思い詰めることも多くなり、この頃から真剣に、帰国のタイミングを模索し始めます。

そんなある日のこと。シンクタンクの仕事でアジアを歴訪し、日本に立ち寄った際、ホテルに一通のメモが届きました。

補欠選挙に伴う民主党からの出馬要請でした。

そして、賽は投げられた

どの政党から出馬するかは、政治家にとって重要な岐路です。この時の私は、次の理由から、民主党でいくことを決意します。

  • 私の政策基調はどちらかというと保守に近いものでしたが、日本の政治を変えようとしているチャレンジャーが、与党から出るのは違和感がある
  • 自民・非自民の良しあしではなく、日本にアメリカのような二大政党制を根付かせ、競争と切磋琢磨の中で健全かつバランスの取れた政治を実現させるというのも、私の大切な政治信念
  • 当時の民主党には、前原さんや松沢さん(後に神奈川県知事から参議院)のような保守派もたくさんいた

何より、文化や事情を超えて、各国の国益がリアルにぶつかり合う国際政治において、外交や安全保障には与党も野党もない、という思がありました。

伊藤達也くんからの出馬の誘いを断るという敗北感を味わってから、8年。今や、政治家として皆さんのお役に立てるだけの素地も整えたつもりですし、気力も充実しています。

とはいえ、この補欠選挙は簡単ではありません。なんと、選挙までたったの一カ月程しかないとのこと。これでは、十分な準備さえできるかどうかわかりません。

が、とにかく足を前に踏み出さないことには、何も始まりません。結果はどうあれ、やるなら、今しかない。

賽は、投げられた!!

アメリカ生活を整理する時間もありませんので、家族をアメリカに残し、急ぎ単身帰国して補欠選挙に臨みました。

しかし、結果はダブルスコアの惨敗でした……!!

その後、アメリカでの仕事や生活の後片付けをして、家族とともに帰国しました。もちろん、この選挙で当選できるとは思っていませんでしたが、半ば放心状態で、この時は、妻と娘二人と、どうやって帰ったのかも覚えていません……。

再び、ゼロからのスタート……!!

ここから、次の選挙に向けての浪人生活が始まります。またもや、ゼロからのスタートです!!(涙)

でも、私の気力は、些かも衰えていませんでした。ゼロからのスタートには違いないですが、この時の私には、専門的な知識や有力や人脈など、アメリカ生活で築き上げてきたものがあります。生活にしても、幸いなことに、アメリカ滞在時に東京財団から研究プロジェクトを3年契約でいただいていたので、なんとかなりそうでした。その代わり、研究は続けねばなりません。

石原伸晃秘書時代の経験で、どうやって地盤を作ればいいかなども分かっていましたので、昼は体を使って選挙区を回り、夜は頭を使って東京財団の研究をするという毎日でした。

もう本当に正直なところ、とにかく時間が足りなく、事務所運営や子育ては妻に任せっきりでした。引き続き、妻には大きな負担をかけてしまいました。現在の私の二大優先政策の一つである「こども政策」は、当時の妻や娘に対する罪滅ぼしということもあるかもしれません。

毎朝駅頭に立ち、戸別訪問やタウンミーティングを繰り返す中で、徐々に地域に浸透し、次第に支援者の輪も広がりました。いつ衆議院の解散があるかもわからない、ゴールの見えない辛い日々ではありましたが、大変ではあっても、日々手ごたえを感じる充実した期間でした。

そして、それから丸3年。平成15年(2003年)11月、41才でついに衆議院に初当選します。高校生の時に政治家を目指し、紆余曲折を経ながら、やっと夢が結実した瞬間でした。

同時に、長年我慢を強いてきた家族に報いることができた瞬間でもあり、弾けるほどうれしかったことを覚えています。

しかし、当選は終わりではなく始まりです。今一度ふんどしを締め直し、これからは腰を据えて、日本をよりよくしていく大仕事に取り掛からなくてはなりません。

私は生来、楽天的な性格です。これからも今までと同じようにコツコツと前進していけば、必ず夢はかなうと信じてやみません。そういう意味では腹は座っていました。

が、政治の世界はなかなかに複雑であり、試行錯誤はこれからも続くことになります……!

政権交代編に続きます!

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