七転び八起きの半生!

長島昭久「奮闘記」

ー無所属から自民党入り、現在までー

自民党で、ゼロからの出直し!

私は、悩んでいました。(生き馬の目を抜くような権謀術数渦巻く政界ですから、これまでも苦労の連続でしたが、今回の苦悩は半端ない……)

有権者の皆さまに国会に再び押し上げていただいたは良いものの、これから政治家として如何にあるべきか。

こういう時は、いつも原点に戻ります。そう、私は、単に政治家でいたいわけではありません。ますます混迷を極める激動の国際社会の中で、日本の外交安保をリードしなければいけない。その為に、苦悶しながらここまでやってきました。

無所属議員として、評論家のような活動をするのはちょっと違う。かといって、共産党と連立の色合いを強め、万年野党への道を突き進む政党に所属し続けるのも論外です。

だとすると、選択肢は実質的に唯一つ。投げ出すという選択がありえない以上、自民党に入党してゼロからやり直すしかありません。これ以外に、自分の政治理念を貫く方法はありませんでした。

私は常々、「外交・安全保障には与党も野党もない」という信念でやってきました。なので、一議員として、以前から与野党問わずお付き合いをさせていただいていたのです。誠に有難いことに、今回の私の境遇をみて、多くの自民党先輩議員が温かい声を掛けてくださいました。

すでに国政6期です。これまで積み上げた実績を捨て、大所帯の自民党で一年生議員としてゼロから再スタートするのは、茨の道に違いありません。でも、有権者の皆さまのご期待に応えるためにも、ここは決断するしかありません。

しかし、私の頭を最も悩ましていたのは、自民党入党そのものではありません。そのこと自体、私の政治理念と矛盾しませんし、むしろ、私を知る多くの支援者から「なぜ自民党じゃないのか?」と問われていたほどです。本当に苦しかったのは、「国替え」です。

「私たちは、長島党」

自民党への入党の条件はたった一つ。それが、国替え、すなわち選挙区の変更です。この時の私の選挙区(東京21区)には、自民党の現職議員がおられたからです。

浪人時代から20年近くも苦楽を共にし、育てていただき、そして、逆風吹き荒れる中でも私を支え続けててくださった、21区の有権者、そして後援会の方々。この方々との別れは、想像するだけで胸が張り裂けそうでした。

でも、本当の意味で有権者の皆さまが私に寄せてくださった期待に応えるには、やはり、このまま万年野党に埋没してはいられません。国会議員としての本分である政策実現のため、恥を忍んで自民党へ鞍替えし、思い切ってゼロからやり直す覚悟を決めました。

そして、この決意を、今まで一緒にやってきた後援会の皆さまに真摯にお伝えすることにしました。急なお呼びかけでしたが、会場には、300名を超える方々が足を運んでくださいました。きっと、皆さまから怒りをぶつけられ、罵られ、詰め寄られるだろうと覚悟して臨みました。

ところが……

「野党の中に埋没し、言いたいことも言えない今のような長島さんでは、我々も応援し甲斐がない。だから、自民党に行ってでも国政で活躍して欲しい」

「長島さんが決めたことならみんなで応援しようよ」

「私たちは、野党の支持者じゃない。長島さんの支持者だ。そう、長島党員だ。何党だって関係ない」

こんな声が、次々と上がりました。複雑な思いを抱えて参加した方もおられたかもしれません。でも、本当に温かく送り出してくださいました。所属政党や選挙区ではなく、政治家としての私に期待をかけてくださっていたのです。

この時ばかりは、涙を堪えきれませんでした。

その後、秘書たちと手分けして後援者のご自宅に貼っていただいたポスターをはがしに伺ったのですが、玄関先で泣き崩れる方もいらっしゃり、それはそれは、ツラい別れになりました。

その先で待っていた、運命

新天地は、東京18区(武蔵野市、小金井市、府中市)です。

初めての地域の方との交流はドキドキでしたが、温かく迎え入れていただき、感謝に堪えません。現在はコロナ禍で直接的な触れ合いが制約され、20年前に、隣接する旧選挙区(東京21区)で走り回った時とは勝手が違いますが、これから地道に交流を積み重ね、旧選挙区に負けないような後援会を作っていきたいと思っています。

加えて、この東京18区といえば、どうしても触れておかねばならないことがあります。対戦相手となる、菅直人元首相のことです。

実は私の旧選挙区である東京21区の大半は、以前の中選挙区時代の菅さんの選挙区と重なっていました。小選挙区で分割されたといえ、私が駆け出しの頃は、菅さんは東京21区にまだ強固な基盤を持っていました。

ですから、野党時代には菅さんや地元を仕切っていらっしゃった伸子夫人には選挙で大変にお世話になり、まさしく初当選の選挙戦では最終街頭演説に当時民主党代表だった菅さんが駆けつけてくれて、文字通り声を嗄らして応援演説をしてくれました。ですから、今でも足を向けて寝れないくらいの大変な恩義を感じています。

その菅さんのおられる東京18区を自民党本部から提示された時には、妻とともに天を仰ぎました。

しかし、これまでの選挙区を返上した立場ですから、これも運命と受け入れるしかありません。

昨日の敵は今日の友、そして、その逆もまた然り。あまりに過酷ですが、戦国時代の武将もこんな心持ちだったのかなと想像します。政治の世界は、まさに、乱世そのものです。

しかし、菅さんは、首相にまでなられた百戦錬磨の政治家。このような状況も、きっとご理解いただけるはず。私たちの掲げる政策理念はかなり異なります。憲法や安全保障、エネルギー、財政政策など国家の基本政策で対立軸ははっきりしているので、もし選挙となれば、正々堂々と政策論争を挑み、有権者の審判を受けたいと考えています。

「未来に誇れる日本」へ

これまでの6期18年間の議員生活は、まさに激動でありました。

野党からの挑戦、政権交代を体験し、その後、政権の中枢で日本の外交安保の舵取りを担いました。その後、離党。無所属となり、考え抜いた末に新党を仕掛けましたが、挫折しました。そして今、ゼロからやり直す覚悟で自民党に入党し、日々活動をしています。

しかしこの間、私の政治理念が変わることはありませんでしたし、これからも変わりません。激しく揺れ動く国際政治の渦中で、現在、そして未来の日本国民の生命と平和な暮らしを守らねばなりません。そのためには、冷徹な現実を直視し、先を見据えて行動する覚悟と経験が必要です。私は、そのために、苦悶しながらも研鑽を積んできました。私がやらずに誰がやる、と自負しています。

そしてもう一つ、地元の皆さまの声に真摯に向き合って気づかされたのは、こども政策の大切さです。現在、そして未来の日本国民の生命と平和な暮らしのために汗をかいてきたつもりだったのに、足元の国内では、なんと多くの親子が筆舌に尽くし難い苦難に見舞われていることか……。

約10年前、児童養護施設の施設長さんから「国際関係も大事ですが、足元の子どもたちに何が起きているかにもっと関心を持って欲しい」とおっしゃっていただいたのをきっかけに、自分なりに児童虐待対策や、親子の貧困対策など、こども政策にも尽力してきました。

私はまだ、59歳です。政治家としては、まさに勝負どころです。安全保障・外交、そして、こども政策、この重要テーマを引き続き政策の両輪に据え、私の政治家としての使命を全うしていきたいと思っています。

未来への挑戦はまだまだ続きます!

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