七転び八起きの半生!

長島昭久「奮闘記」

ー誕生から渡米ー

ふたつの原点

「一寸先は闇」「捨てる神あれば、拾う神あり」

「一寸先は闇」。こんな言葉がありますが、政界とはどんなところかと聞かれたら、これ以上相応しい表現はないでしょう。また、人生いろいろですが、60年近くの半生を振り返ってみて、「捨てる神あれば、拾う神あり」という言葉を何度嚙み締めたことか。(具体的な話は、本稿でじっくり述べさせていただきます!)。

しかしながら、そんな混沌とした世界にあって、道標となるものがあります。それは、政治家としての原点です。私の社会人としてのキャリアは困難な決断の連続でしたが、その都度、この原点に立ち返って、考え抜き、行動してきました。そんな私の原点は、2つあります。

まず、慶應義塾で叩き込まれた福沢精神です。これ抜きには、政治家としての長島昭久は語れますまい。 幼稚舎(小学校)から大学院博士課程までの実に23年間を、この学舎で過ごしました。実は、私は祖父の代から続く慶應義塾3代目でもありまして、筋金入りの慶應魂の持ち主です。

慶應義塾を貫く精神的バックボーンは「独立自尊」という言葉に集約されます。ちょっと前に、NHKでドラマ化もされた、司馬遼太郎の不朽の名作『坂の上の雲』でも頻繁に登場しましたね。明治期の日本を知る上で不可欠なキーワードです。誰かに依存することなく、他人を尊重することを通して自分を尊重すること。この精神は、自身の原点であるだけでなく、国家の理念にも通ずると思っています。

ちなみに、大学時代は、泣く子も黙る「応援指導部」に所属していました。友人の多くが、楽しそうに開放的な青春を謳歌する中、私たちはビシっと学ランを着て、厳しい規律と練習漬けの日々を過ごしていました!

そしてもうひとつ、忘れられない経験があります。高校生活最後の昭和54年(1979年)のことです。

2月にイラン革命、中越戦争、そして、12月にはソ連のアフガニスタン侵攻と、国際社会を揺るがす大事件が次から次へと勃発しました。そんな激動のただ中にあって、私が目にしたのは、党内の派閥抗争に明け暮れる日本の政治家たちの姿でした。あのハマコー先生が党本部のバリケードを撤去しながら記者たちにすごむ映像を観た方も多いでしょう。愕然としました。日本にも、国際政治をリードできるような政治家が必要だと、確信しました。本気で政治家を志したのは、この時です

順風満帆だった政治への道……のはずが!?

本気で政治家になるには、何をすべきか……?

大学を卒業するにあたり、次の進路は悩みに悩みましたが、法学部法律学科から政治学科へ学士入学し、その後、大学院へ進むことにしました。国会議員になろうというのだから、国家の基本法である憲法を、徹底的に学ぶべし!と考えたのです。

期待通り、大学院では、著名な教授たちに、憲法のなんたるかを叩き込んでいただきました。その傍ら、TA(ティーチング・アシスタント)として、後輩の指導にも力を入れました。その後、修士論文も書き上げ、都内の短大で教鞭を執るようになります。私は、順調に成長できていると思っていました。

そんな折の平成2年(1990年)、28歳の時のことです。大学院博士課程在学中に、旧友の石原良純くんに誘われ、兄である石原伸晃さんの初めての選挙を手伝う機会がありました。そして伸晃さんは、見事に当選!私は、石原代議士の公設第一秘書に就任したのです。

必死で勉強して学業を修め、いよいよ、長年の目標だった政治の場に進出です! 私は、やる気と気概に、満ち満ちていました。実際、地元の責任者として、自分なりに一生懸命働きました。ゼロからの後援会作りなど、地道ながら、とても大切な成果を着々とあげていきました。政治のリアルを知る上で、かけがえのない経験でした。

ただ、当時の私にとって、その「リアル」は、あまりにも重かった。

一生懸命働いたからこそですが、政治の可能性と合わせて、その複雑怪奇な力学と、社会を変えるのに必要な力の巨大さを、痛感してしまったのです。今の自分では、例え議員になったとしても、世の中を変えられないかもしれない……。そんな挫折感に、押し潰されそうになります。

裸一貫での渡米を決意!

そんな時、高校からの友人である伊藤達也くん(現衆議院議員)から連絡があり、国政選挙に出るから、長島も一緒に出ないかと誘われました。文字通り、一晩かけて口説かれます。

もちろん、私は、政治家になりたい。その為にたくさん勉強したし、秘書としても必死に働いてきました。経験も積みました。でも、だからこそ痛感してしまった現実。今の自分が政治家になれたとして、本当に、自分が志した政治家になれるのだろうか? 国際政治をリードできる、リーダーになれるのだろうか……? 

政治家になるのは、手段であって、目的ではないはず。この時、心身ともに準備万端な「達ちゃん」とは違い、私には、今すぐ選挙に打って出るというところまでは、機が熟しているように、どうしても思えませんでした。有難い誘いでしたが、まさに断腸の思いで断ります。 

この出来事が、決定的でした。達ちゃんのせっかくの誘いに応えられなかった自分の不甲斐なさ、そして、いろいろな機会を与えてくれた石原代議士には心から感謝しているものの、このまま石原秘書として政治に埋没してもいいものかという危機感が、急速に膨らんできました。

悩みに悩みましたが、例えどんな遠回りになろうとも、私は、私が志した政治家、それも単なる政治家じゃない、「国際政治をリードできる政治家」になりたい。本当に、日本を変えられる政治家になりたい。その為に、ゼロからやり直そう! そう決意しました。

そこで、以前から憧れはしていたものの、半ば諦めかけていたアメリカ留学に打って出ることにしました。平成5年(1993年)、31歳からの武者修行です!

でも、資金は……!?

と、覚悟を決めたはよいものの、大きな問題がありました。そう、お金です!!

私も私の実家も決して裕福ではなく、とてもではありませんが、この時に留学費用を工面する余裕は、どこの袖をふってもありませんでした。

こんな無謀な計画を聞いて、誰よりも仰天したのは、渡米決断のわずか5ヶ月前に結婚したばかりの妻・充子です。ひょっとしたら、新婚早々、ここで三行半を突きつけられてしまうかもしれない……。そんな不安でいっぱいでしたが、妻は、限りなく寛容でありました。

気持ちよく私を米国に送り出してくれたばかりか、日本で働いて、仕送りまでしてくれたのです!! 米国での生活は切り詰めなければなりませんでしたが、おかげで、学業に専念することができました。今でも妻は私の活動を陰に日向に支えてくれていて、ひたすら、ただひたすら、感謝であります。

そんな、夫婦の力を合わせての渡米。私の為にも、妻の為にも、そして何より、日本の為にも、必ずや彼の地で飛躍せねばならん! そんな覚悟で、太平洋を渡りました。

武者修行編に続きます!

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